世界中で患者が増え続けるパーキンソン病
世界では多くの人たちが様々な病気と闘っており、中でも根本的な治療法が確立されていない疾病患者の苦悩は計り知れないものがあるでしょう。そんな難病の中でも、高齢化に伴い世界中で発症率の増加が著しいのがパーキンソン病です。全世界におけるパーキンソン病の患者数は2015年の段階で1990年の2倍以上の690万人、今後さらに増え、2040年には1420万人に増加すると推定されています。1
パーキンソン病とは、中脳の黒質のドーパミン神経細胞の減少により、主に、振戦(ふるえ)、筋強剛(筋肉が固くなる)、無動・寡動(体が動かなくなる・動きが遅く少なくなる)、姿勢調節障害などの症状をきたす病気です。また、これら加え、嗅覚障害や抑うつといった精神症状、さらには認知症の合併を引き起こすケースもあります。
50歳以上での発症が多く、日本国内の有病率は10万人に100〜150人ほど、高齢になるほど発症率が上がり、60歳以上ではおよそ100人に1人ほどの割合になります。2 40歳以下で発症するケースもあり、若年性パーキンソン病と呼ばれます。発症の原因はいまだ解明されておらず、さらに根治治療が困難であるため「不治の病」との印象を持つ人も少なくないでしょう。平均年齢が80歳以上となり人生100年時代と言われる今、パーキンソン病と診断されたら、将来に希望を持つことは叶わないのでしょうか。
ドーパミン投与の定量化が治療の鍵
ロボット工学の視点から、パーキンソン病のリハビリテーションに関する研究に携わる理化学研究所・脳神経科学研究センターの下田真吾氏は「必ずしも悲嘆する必要はない」と断言します。なぜなら、パーキンソン病は初期段階で診断されることが多く、歩行困難になる未来はずいぶん先のことになるはずだからだと言います。
発症原因は明らかではありませんが、症状発生のメカニズムは解明されており、その理由は1つだとされています。それは、大脳基底核のドーパミン生成が不足することです。ならば、その不足分を補うことができれば、症状を抑制することができると考えられます。脳内のドーパミン量を正しくコントロールできれば、病気を根治させることはできないとしても、うまく付き合いながら人生の後半を豊かに過ごしていけるのです。
体内で必要な何かが不足することで起こる病気と聞いて真っ先に思い浮かぶのが糖尿病ですが、不足したインスリンを患者が自分で投与しないで済む「人工すい臓」が開発されています。これは、血糖測定器とポンプが連動し、血糖値をAIが解析して適切な量のインスリンを自動投与する仕組みになっています。パーキンソン病治療においても、ドーパミンを自動投与できる仕組みが実現できればいいのですが、脳内のドーパミン量を測定することは血糖値のように容易ではありません。だからこそ、投薬コントロールが難しく、そういう部分こそ「技術の力」でサポートしていくべきだと下田氏は話します。
宇宙を解明するために、人間の脳に学ぶ
そもそも宇宙開発に携わっていきたいとJAXAで研究していた下田氏がパーキンソン病のリハビリ研究に携わるようになったのは、人間の脳からは学ぶべきことが多くあると考えたからだと言います。高校生の頃から「将来は宇宙開発の道へ」と志し、学びを深めてきた下田氏が脳科学にたどり着いたいきさつはどんなものだったのでしょうか。
「宇宙といっても、宇宙ビジネスにはあまり興味がなくて。やっぱり宇宙と言えば〝夢とロマン〟を追い求めたいんです。じゃあ、人をあっと驚かせるような、自分も興奮できるようなことって何か?と突き詰めたら、地球外生命体を見つけるくらいしかない。でも、それを成し遂げるには今のようなAIじゃなく、宇宙システムにも人の脳のようにフレキシブルな判断ができる知能が必要だと思うんです。ならば、宇宙システムの進歩のために、脳に学ぼうじゃないかと。」と力説する下田氏。人間の脳と比較すると、現在のAIはまさにこの柔軟性を持ち合わせていません。だからこそ、なぜ人間の脳はこれほどにも柔軟な認知や判断ができるのかを研究しようとしたのがそもそものスタートだったのです。
脳の柔軟な認知に関わると下田氏が注目したのが、人間の持つ運動能力でした。
例えば、私たちは初めての場所であっても、そこには凹凸があるのか傾斜があるのか知らなくても、苦労することなく歩みを進めることができます。未知の環境に対して柔軟に対応できる能力こそが、フレキシブルな知性の根本ではないか、と目を付けた下田氏は人の運動制御を解明するため、歩行をはじめ人の動きを行うロボットの研究開発から始めたと言います。そして、その研究内容の学会発表をきっかけに、リハビリテーション分野の医師を紹介されたことが、医療との関わりを持つきっかけとなったのです。
そもそも研究者とは、世の中の役に立つものを作るのには苦手な人たちだと、語る下田氏。それでも人の役に立てるのは、研究者冥利に尽きること。喜んでもらえる上に、人の運動制御の解明につながるのであれば一石二鳥と、互いを補い合える医師や医療現場とのネットワークはさらに広がっていったそうです。
タッチエンスとの出会いと足裏データの可能性
下田氏とタッチエンス株式会社が出会うきっかけとなったのは、遠隔触診の医療プロジェクトでした。研究を進めていく中で、プロジェクトパートナーの1つとしてセンサーを提供するタッチエンスから紹介されたのが、今や下田氏のパーキンソン病のリハビリテーション研究に欠かせない「ショッカクシューズ」でした。
私たちが歩く時に地面と接しているのはたった20センチほどの足裏だけですが、その足裏だけが、体の中で唯一周りの環境に接してエネルギーのやりとりをしていると考えられます。私たちが意識せずとも、体の動きのあらゆる情報が足裏に集まり、そこから発信される歩行データは、患者の状態を知る重要な手がかりになります。
通常、歩行データの取得には地面に設置する計測器が使われることが多く、設置場所でしかデータを取れないのが課題でした。しかし、センサーを搭載したシューズであれば、場所を問わずデータの計測が可能です。ただ、センサーシューズ自体は大手シューズメーカーも販売していますが、いずれも早い動きでないと安定的に信号が出力されないため、歩行データの取得には適していませんでした。
さまざまなデバイスを検討しましたが、足とシューズにかかる力情報を多軸で取得可能なタッチエンスの6軸触覚センサーは、他社製品を圧倒する脅威的な精度のデータ取得に成功したのです。速度の遅い歩行データだけでなく、踏ん張ったりねじったりする動作情報の測定もできるので、パーキンソン病患者特有の「すり足」にも対応。「ショッカクシューズ」のおかけで、患者のさまざまな歩行データを収集できるようになりました。そのデータから脳内のドーパミン量の変化を予測、パーキンソン病患者のリハビリ研究に生かしています。」
従来のセンサーシューズやインソールでは不可能と思われていたパーキンソン病患者の多角的な歩行データを正確に取得することができる「ショッカクシューズ」は、その性能の高さに海外の研究室も興味を寄せています。また、パーキンソン病だけでなく、足の測定圧を測ることが必要な他の研究などでも広く注目されていて、多くの研究者が「ショッカクシューズ」に期待していると下田氏は話します。
「パーキンソン病患者の歩行時における足底の体重移動の測定データ」
データ内の白い丸が歩行時の体重移動の様子を、色の変化が荷重を表しています
決して遠回りではない、宇宙への道のり
研究者は医師ではないので、直接病気を治療することはできません。しかしながら、研究者の開発したシステムにより、それまで不可能だったことが可能になることで、間接的に治療をサポートすることは可能です。トライアンドエラーを繰り返し、物事を論理的に解決に導くことは、まさにロボット工学やAIが得意とする分野でしょう。下田氏はこれを「意識の知性」と表現し、こう続けます。「ただ私たちは、医療の場はもちろん、様々なところでそれだけでは納得できないのです。論理的なことでは片付けられない「無意識の知性」これこそが人の本質であり、不思議で面白いところですね。」
「そうは言っても、私が興味があるのは宇宙開発なんですよ」と言いながらも、その前にまだまだやることがあると話す下田氏。宇宙への果てしない想いを持ち続けながらも、日々重ねていく研究の一つひとつが、困っている誰かを支える確かなものへと導きます。
一見、医療とは関係のないように見える工学技術が、病気や障がいに悩む人の役に立ち、間接的に医療の発展に関わっていくことは、さまざまなハンデを抱える人を含むすべての人々が、その人らしく豊かに暮らしていける社会へとつながっているのです。
理化学研究所 脳神経科学研究センター 知能行動制御連携ユニット
https://www.riken.jp/research/labs/cbs/riken_toyota/intell_behav_ctrl/index.html
タッチエンス株式会社(ショッカクシューズ)
http://touchence.jp/products/
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